損害賠償請求事件(石風呂装置事件)

2017.05.31

錯誤無効の成否
一.事件の概要

 

事件番号

「平成19年(ワ)第17344号」

 
本件は、原告が被告Yとの間で、被告Yが特許権者であった「石風呂装置」の特許につき、専用実施権設定契約を締結し、その契約に基づいて被告Yに契約金として3000万円を支払ったところ、その後、同特許を無効とする審決が確定したため、その特許に係る「石風呂装置」を独占的に使用することができなくなったとして、

 

(1)①被告ら(被告Yおよび被告会社)が共謀の上、特許に無効原因があることを知りながら、原告にそのことを告げず、原告に同特許が有効であると誤信させ、また、同特許に係る発明を実施したものでない石風呂装置を同特許に係る発明を実施したものであると誤った説明をし、原告にその旨誤信させて専用実施権設定契約を締結させた上、契約金3000万円を支払わせたこと、②被告らが特許の無効を招いたことがそれぞれ共同不法行為に当たると主張して、被告らに損害賠償を請求し、

 

(2)(1)の②の行為は、原告に対する債務不履行に当たると主張して、被告らに対し、損害賠償を請求し、

 

(3)(1)の①の事実によれば、同契約は、錯誤により、又は公序良俗違反により無効であると主張して、被告らに対し、不当利得返還請求権に基づき契約金の返還を請求し、

 

(4)特許を無効とする審決が確定したことを理由に、不当利得返還請求権に基づき契約金の返還を請求した事件です。

東京地方裁判所民事第47部における判決主文は以下のとおりです。
1被告らは、原告に対し、各自金3000万円及びこれに対する平成18年12月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2原告の被告らに対するその余の請求をいずれも棄却する。
3訴訟費用は、被告らの連帯負担とする。
4この判決は、第1,3項に限り、仮に執行することができる。
■本件発明の要旨、事案の経緯
1.本件発明の要旨
被告Yは、以下の特許第3396776号(以下、「本件特許」といい、本件特許に係る発明を「本件発明」といいます。)を有していました。

本件特許の特許請求の範囲は、以下のとおりです。
「建物Aの最下部層に断熱材(1)を設け、この上にコンクリート層(2)を設け、更にこの層の上部に温水管(4)を埋設したモルタル層(3)を設け、この上に最上層として砂利及び炭を混合した温浴層(5)を設けて、床を4層構成とし、建物内部に蒸気吹出口を設けてなり、ボイラーBからの温水を上記温水管(4)に循環させて床最上層の温浴層(5)を適温に加温すると共に、蒸気の噴出によって建物A内を適温・適湿度に保ったことを特徴とする石風呂装置。

 
2.事案の経緯
(1)被告Yは、平成15年3月18日、嵐の湯(有限会社鉱石ミネラル嵐の湯、石風呂装置を用いた「たびやかた嵐湯」を経営、代表取締役Z)との間で、本件特許につき、通常実施契約(以下、「嵐の湯実施契約」といいます。)を締結しました。

嵐の湯は、平成15年12月17日、以下の特許出願(特願2003-418837号、同出願に係る発明を「Z発明」といいます。)をしました。

この出願は、審査請求がされないまま、取り下げとみなされました。

Z発明の特許請求の範囲は、以下のとおりです。
「建物Aの最下部をコンクリート層として床面を形成し、該コンクリート層に上下3段に配した温水管を埋設し、ボイラーXにより温水を循環して送入して加熱床とすること、該加熱床の上部に薬石層を25cm厚さに敷き詰め、該薬石層内に温泉水送入管を配し、薬石層内部に温泉水を浸透させ、室内を温泉水の蒸気で充満させることを特徴とする石風呂装置。」

 

(4)原告は、平成15年12月22日、被告Yとの間で、本件特許につき、以下の専用実施権設定契約(以下、「本件実施契約」といいます。)を締結しました。
①被告Yは、原告に対し、本件特許権につき専用実施権を設定する。
②専用実施権の実施地域は、岐阜県及び長野県とする。
③期間は、平成15年12月22日から平成30年12月21日までとする。
④原告は、本件実施契約の締結時に被告Yに対し、契約金として金3000万円を支払うものとする。
⑤原告は、被告Yに対し、原告による本件特許権の実施による石風呂の入浴料につき、毎月21日から翌月20日までを集計して、その入浴料の4%に相当する金員を翌月末日までに支払う。
⑥本件実施契約に基づいてされたあらゆる支払いは、事由のいかんにかかわらず原告に返還されないものとする。

 

(5)原告は、平成15年12月24日に本件実施契約に基づき、契約金3000万円(以下、「本件契約金」といいます。)を被告Yに支払いました。

 

(6)嵐の湯は、平成16年3月11日に被告Yに対し、嵐の湯実施契約が錯誤により無効であると主張して、同契約に基づく実施料等の支払いを拒絶しました。この結果、被告Yは、嵐の湯実施契約を解除する通知をした後、同年6月15日に嵐の湯の設置した石風呂装置が本件特許権を侵害するとして、嵐の湯に対し、特許権侵害差止訴訟を提起しました。

 

(7)嵐の湯は、同訴訟において、嵐の湯が使用している石風呂装置は本件発明の技術的範囲に属さないと主張するとともに、平成16年11月26日に特許庁に本件特許の無効審判を請求しました。

特許庁は、無効審判請求につき、平成17年4月26日に本件特許を無効とする審決(以下、「本件無効審決」といいます。)をしました。

被告Yは、本件無効審決の取消訴訟を提起したところ、知的財産高等裁判所は、平成18年5月30日に請求棄却の判決をしました。被告Yは、この判決を不服として上告及び上告受理の申立をしたところ、最高裁判所は、上告を棄却するとともに上告を受理しないとの決定をし、本件無効審決が確定しました。

このため、被告Yは、特許権侵害差止訴訟を取り下げました。
■本件請求事件における争点
1.共同不法行為の成否(特に、故意・過失、権利侵害(違法性の存在)、因果関係)
参考:民法第709条(不法行為による損害賠償)
故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益(生命、身体、財産等)を侵害(作為又は不作為)した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
民法第719条(共同不法行為者の責任)
第1項 数人が共同の不法行為によって他人に損害を加えたときは、各自が連帯してその損害を賠償する責任を負う。共同行為者のうちいずれの者がその損害を加えたかを知ることができないときも、同様とする。

 

第2項 行為者を教唆した者及び幇助した者は、共同行為者とみなして、前の規定を適用する。
2.債務不履行の成否
3.錯誤無効、公序良俗違反の成否
参考:民法第95条(錯誤)
意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。
ただし、表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない。
民法第90条(公序良俗)
公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。
4.本件無効審決の確定による本件契約金の返還義務の有無

 

二.裁判所の判断
1.本件の経過について
(1)当事者間に争いのない事実等及び証拠並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

被告YとZは、平成15年3月1日、本件発明に係る石風呂装置を両名が共同して販売するなどして世に広めること、販売等により得た利益は両名で折半することを合意した。

被告Yは、同月18日、Zが代表者をしている会社である嵐の湯との間で、本件特許につき嵐の湯に通常実施権を設定する旨の契約(嵐の湯実施契約)を締結した。

被告Yは、同年8月26日、本件発明の実施品である石風呂装置を利用した浴場を経営することを目的とする「みんなの石の湯グループ」を主催し、本件発明の実施に伴う収入の受け皿となる会社として、被告石の湯総本部を設立し、その代表取締役に就任した。

Zは、平成15年3月ころ、合意に基づく石風呂装置販売のモデルとするため、嵐の湯の経営する温泉宿泊施設である「たびやかた嵐湯」内に石風呂装置1号を設置した。

Zは、同年10月半ばころ、石風呂装置1号の薬石層に温泉水を導入して蒸気化し、石風呂内を温泉水の蒸気で充満させる構成を追加した石風呂装置2号を「たびやかた嵐湯」内に設置した。

 

(2)現在、原告の監査役であるWは、平成15年10月ころ、知人から「たびやかた嵐湯」の石風呂装置にいろいろな効能があるとの話を聞いて、石風呂装置を用いた施設の開業を考えるようになり、同月末ころ、Wを含む5名が山形県東根市内にある「たびやかた嵐湯」を訪れ、石風呂装置1号及び2号(Z装置)を見学して入浴を体験するとともに、ZからZ装置についての説明を受けた。

その際、Zは、Wらに対し、パンフレットを示して、Z装置の構造の概要や効能を説明するとともに、Z装置は被告Yが特許権者である本件特許権を実施したものであり、Z装置を用いた施設を開業するためには本件特許権の実施契約を締結し、契約金を支払う必要があることなどを説明した。

 

(3)Wらは、相談の結果、平成15年11月20日ころ、同人らにおいて会社を設立した上でZ装置を用いた施設を開業することを決め、紹介者を通じて本件特許の実施契約の契約書案の送付を受けた。

同年12月11日には、被告Yらが原告の本店所在地である岐阜県関市を訪れ、Wらに対し、契約書案の契約条項について説明するとともに、同人らから条項についての希望を聴取した。

その際、被告Yは、Wらに対し、本件実施契約書の6条1項につき、特許が無効になっても契約金等の返還をしない趣旨である旨を説明した。

被告Yは、Z装置が本件発明の技術的範囲に属すると考えており、このときも、Wらに対し、Z装置を設置した「たびやかた嵐湯」が本件特許権を実施した第1号店である旨を説明した。

 

(4)本件実施契約の締結は、平成15年12月22日に、「たびやかた嵐湯」において、被告Y、原告代表者、W、Zらが同席して行われた。

原告は、同月24日、本件実施契約に基づき、本件契約金3000万円を被告Yに支払った。

被告Yは、同日、Zに対し、原告を被告Yに紹介した仲介手数料として500万円を支払った。

 

(5)Zは、Z装置の構成が、本件発明の構成と異なっていることを認識していたものの、全体としてはZ装置は本件発明と類似の構造であって本件発明の技術的範囲に属するものと考えていた。

しかしながら、構成の違いもあることから、念のため、平成15年12月17日、Z発明につき特許出願をした。

Z発明の構成は、一部の構成が異なるものの、その他の構成はZ装置と同じである。なお、同出願について審査請求はなく、特許査定がされていない。

 

(6)Zは、全国のZ装置と同様の構造の風呂装置を用いている業者に対し、本件特許権を侵害するものである旨を記載した「特許権侵害警告書」を送付していた。

ところが、Zは、特開平8~12406号(以下「公知文献1」という。)に記載の発明の発明者であるPから、平成16年1月28日付けの手紙により、本件発明のうち加熱装置の部分は公知文献1記載の発明と同一であり、本件特許は「砂利と炭」の混合層を設けるものとして認められた特許で、「砂利と砂」の混合層を設けたもののみが本件特許権の権利範囲であって、加熱装置だけでは特許権の対象とならない、Z装置の加熱装置は、公知文献1記載の加熱装置そのものである旨の通知を受けた。

このため、Zは、本件発明の技術的範囲について疑義を持つようになった。

 

(7)嵐の湯は、平成16年3月11日付け書面により、被告Yに対し、嵐の湯実施契約は、本件特許権が石風呂装置の加熱技術、加湿技術を含む特許であることを前提として締結したものであり、Pの前記指摘どおり加熱装置だけでは特許権の対象とならないのであれば、嵐の湯実施契約は錯誤により無効となる可能性があるとして、本件特許権の範囲やPの主張の当否等について明確に説明するよう求めるとともに、この点が不明確なままでは、嵐の湯実施契約に基づく債務の履行ができないとして、同契約に基づく実施料等の支払を停止するとの通知をした。

 

(8)これに対し、被告Yは、同年4月15日付け通知書により、嵐の湯に対し、本件特許は特許庁がその新規性、進歩性を認めた上で認めたものであり、いったん認められた特許が簡単に無効などになるはずがないこと、本件特許は、特許請求の範囲及び明細書に記載された加熱技術及び加湿技術を含むものであること、Pの主張する公知文献1記載の発明は、その特許請求の範囲に記載された原材料の配合割合によって成形、構築したコンクリート体を基本とするものであり、本件特許は上記発明によって何ら影響を受けるものではないことなどを主張し、嵐の湯実施契約が錯誤により無効であるとの主張を受け入れることはできないので、速やかに同契約に基づく実施料等を支払うよう求めた。

 

(9)これに対し、嵐の湯は、同年5月11日付け書面で、被告Yに対し、本件特許の構成要素のうち権利範囲として他に主張しうるものは砂利と砂の混合層であり、本件特許がそのような特許であることを初めから知っていれば嵐の湯実施契約には至らなかったことは明らかであり、同契約は要素の錯誤により無効であること、そもそもZ装置は炭と砂利の混合層を用いていないから、本件発明の技術的範囲には属しないものである、と主張し、被告Yの要求には応じられない旨回答した。

 

(10)被告Yは、平成16年5月18日付け書面で、嵐の湯に対し、実施料等の未払を理由に嵐の湯実施契約を解除し、本件発明を用いた営業を即時に中止するよう求める通知をした。これに対し、Zは、Z装置が本件発明の技術的範囲に属しないので、営業の中止要求等に応ずるいわれはないとの回答をした。

被告Yは、同年6月15日、Z装置が本件特許権を侵害するとして、嵐の湯に対し、Z装置の使用の差止め、廃棄及び損害賠償の支払を求める特許権侵害差止訴訟を山形地方裁判所に提起した。

これに対し、嵐の湯は、Z装置が本件発明の技術的範囲に属しないと主張するとともに、同年11月26日には、本件特許に無効事由があるとして、特許庁に、本件特許の無効審判請求をした。

特許庁は、上記請求につき、平成17年4月26日、本件発明は、公知文献1、実願昭61~5617号(実開昭62~116729号)のマイクロフィルム(以下「公知文献2」という。)及び特開平11~19168号公報(以下「公知文献3」という。)並びに周知技術に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであるので、本件発明の特許は特許法29条2項の規定に違反してされたものであり、同法123条1項2号に該当し、無効とすべきものである、として、本件特許を無効とするとの本件無効審決をした。

 

(11)被告Yは、本件無効審決の取消訴訟を知的財産高等裁判所に提起したところ、知的財産高等裁判所は、平成18年5月30日に、被告Yの請求を棄却する判決をした。

被告Yは、同判決を不服として上告及び上告受理の申立てをしたものの、最高裁判所は、同年10月20日、上告を棄却するとともに上告を受理しないとの決定をし、本件無効審決が確定した。このため、被告Yは、上記特許権侵害差止訴訟を取り下げた。

 

2.本件発明、Z発明及びZ装置について
(1)本件発明の特許請求の範囲(請求項1)を分説すると、次のとおりである。
A 建物Aの最下層部に断熱材(1)を設け、
B この上にコンクリート層(2)を設け、
C 更にこの層の上部に温水管(4)を埋設したモルタル層(3)を設け、
D この上に最上層として砂利及び炭を混合した温浴層(5)を設けて、床を4層構成とし、
E 建物内部に上記吹出口を設けてなり、
F ボイラーBからの温水を上記温水管(4)に循環させて床最上層の温浴層(5)を適温に加湿すると共に、蒸気の噴出によって建物A内を適温・適湿度に保ったことを特徴とした石風呂装置

 

(2)Z発明の特許請求の範囲を分説すると、次のとおりである。
G 建物Aの最下部をコンクリート層として床面を形成し、
H 該コンクリート層に上下3段に配した温水管を埋設し、
I ボイラーXにより温水を循環して送入して加熱床とすること、
J 該加熱床の上部に薬石層を25cm厚さに敷詰め、
K 該薬石層内に温泉水送入管を配し、
L 薬石層内部に温泉水を浸透させ、室内を温泉水の蒸気で充満させることを特徴とした鉱物ミネラル風呂装置

 

(3)Z装置のうち、石風呂装置2号の構成は、上記構成のうち、コンクリート層の下にスタイロフォームが設けられている点及びコンクリート層に埋設された温水管が上下2段に配されている点を除き、Z発明と同一の構成である。

Z装置のうち、石風呂装置1号の構成は、薬石層内に温泉水送入管を配して温泉水を浸透させ、室内を温泉水の蒸気で充満させるとの構成を有していないほかは、石風呂装置2号の構成と同じである。

 

(4)本件発明とZ発明との対比
本件発明とZ発明とは、加熱床の一部又は全部をコンクリート層とし、加熱床に埋設した温水管にボイラーからの温水を循環させる点において一致するものの、次の各点において相違するものと認められる。

本件発明では、建物の最下部に断熱材を設けるのに対して、Z発明では、そのような構成をもたない点、本件発明では、モルタル層に温水管を埋設するのに対して、Z発明では、コンクリート層に温水管を埋設する点、本件発明では、砂利及び炭を混合して最上層を構成するのに対して、Z発明では、薬石を厚さ25cmに敷き詰めて最上層を構成する点、本件発明では、室内に蒸気吹出口を設けて蒸気を噴出させ、室内を適温・適湿度に保つのに対して、Z発明では、薬石層内に温泉水送入管を配して温泉水を浸透させ、室内を温泉水の蒸気で充満させる点、以上に述べたところによれば、Z発明は、本件発明に包含されるものではないということができる。

 

(5)本件発明とZ装置との対比
本件発明とZ装置とは、建物の最下部に断熱材を設ける点、加熱床の一部又は全部をコンクリート層とし、加熱床に埋設した温水管にボイラーからの温水を循環させる点において一致するものの、本件発明では、モルタル層に温水管を埋設するのに対して、Z装置では、コンクリート層に温水管を埋設する点、本件発明では、室内に蒸気吹出口を設けて蒸気を噴出させ、室内を適温・適湿度に保つのに対して、Z装置では、薬石層内に温泉水送入管を配して温泉水を浸透させ、室内を温泉水の蒸気で充満させる点で相違するものと認められる。

以上に述べたところによれば、Z装置は、本件発明の技術的範囲に属しないものということができる。

 

3.共同不法行為の成否について
(1)原告は、被告Yが、本件特許について無効原因があることを知りながら、これを原告に告げずに本件実施契約を締結させたことが不法行為に当たる、と主張する。

しかしながら、被告Yが、本件実施契約締結当時に本件特許に無効原因があることを知っていたことを認めるに足る証拠はない。

認定した事実によれば、本件特許については、公知文献1ないし3に記載された発明及び周知技術に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであるので特許法29条2項に違反する(進歩性を欠く)としてこれを無効とした本件無効審決が確定している。

進歩性の判断における「当業者」とは、その発明の属する分野の技術水準にあるもの(公知、公用、文献公知の発明等)のすべてを理解している者をいい、擬制された抽象的な人格であって、現実にそのような人が存在するわけではない。

無効審決において公知文献であるとされたからといって、そのことから直ちに、発明者や特許権者ら当該技術分野の関係者が実際にこれらの公知文献を知っていたということができないことは明らかである。

証拠(丙6)によれば、被告Yは、本件特許の出願過程において受けた拒絶理由通知の中で公知文献1を示されていることから、本件実施契約締結当時、公知文献1の存在については知っていたと認められるものの、審決における無効理由を構成するその他の公知文献についてまで、知っていたことを示す証拠はない。

上記無効理由は、本件実施契約締結から1年近くが経過した平成16年11月26日付けで嵐の湯が本件特許についてした無効審判請求において主張されたものであり、それ以前に同無効理由が主張されたことを示す証拠はないことから、被告Yが、本件実施契約締結当時において、これらの公知文献や周知技術の組合せからなる無効事由の存在を知っていたとは考え難い。

原告の上記不法行為の主張は採用することができない。

 

(2)原告は、被告Yが、Z装置が本件発明の実施品でないことを看過し、原告に対し、Z装置が本件発明の実施品である旨の誤った説明をして原告に本件実施契約を締結させたことが不法行為に当たる、と主張する。

前記認定説示したところによれば、被告Yは、Z装置が本件発明の技術的範囲に属しないにもかかわらず、技術的範囲に属すると誤信して、原告の設立をした関係者に対し、Z装置が本件発明の実施品である旨の誤った説明をして本件実施契約を締結させたものであるということができる。

しかしながら、故意により虚偽の説明をしたというならともかく、誤った説明をしたというだけでは、そのことについて仮に過失が認められるとしても、不法行為となるような違法な行為があるということはできないというべきである。

上記不法行為の主張は採用することができない。

 

(3)原告は、被告Yが、Z装置が本件発明の実施品でないことを看過し、ZからZ装置が本件発明の実施品でないとの主張をされるという事態を招き、これを契機として本件特許の無効という事態を招いたことが不法行為に当たる、と主張する。

しかしながら、被告YにおいてZ装置が本件発明の実施品でないことを看過したというだけで、不法行為となるような違法な行為があったということができないことは上述したところから明らかである。

また、被告YがZ装置が本件発明の実施品でないことを看過したことは、通常、本件特許の無効をもたらすようなものであるということはできないから、両者の間に相当因果関係があると認めることもできないというべきである。

上記不法行為の主張も採用することができない。

 

(4)以上のとおりであるから、被告らに対する、共同不法行為に基づく損害賠償請求はいずれも理由がない。

 

4.債務不履行の成否について
(1)原告は、被告Yが、Z装置が本件発明の実施品でないことを看過し、ZからZ装置が本件発明の実施品でないとの主張をされるという事態を招き、これを契機として本件特許の無効という結果を招いたものであり、被告Yには本件特許を維持すべき契約上又は信義則上の義務に違反した債務不履行がある、と主張する。

被告Yは、本件実施契約上、本件特許について特許料の支払をしてこれを消滅させないようにしなければならず、あるいは本件特許権を放棄してはならない義務を負うというべきであり、この意味において本件特許を維持すべき契約上の義務を負っているということができる。

しかしながら、被告YがZ装置が本件発明の実施品でないことを看過したことは、通常、本件特許の無効をもたらすようなものであると認めることができないことは、前記説示したとおりであるから、そのことによって被告Yが本件特許を維持すべき義務に違反したということはできないというべきである。

また、認定した事実によれば、被告Yは、嵐の湯のした本件特許の無効審判請求について、これを争い、本件無効審決に対して知的財産高等裁判所に審決取消訴訟を提起し、同訴訟での請求棄却判決を不服として上告及び上告受理の申立てをしており、特許無効を回避するために採り得る法的手段を尽くしたということができるから、結果的に本件無効審決が確定し本件特許が無効となったとしても、被告Yに本件特許を維持すべき契約上の義務違反があったということはできない。

原告の主張を採用することはできない。

 

(2)以上のとおりであるから、被告らに対する、債務不履行に基づく損害賠償請求はいずれも理由がない。

 

5.錯誤無効、公序良俗違反の成否について
(1)上記で認定説示したところによれば、原告は、その設立をした関係者が被告Y及びZからZ装置が本件発明の実施品である旨の説明を受け、Z装置と同一の装置を独占的に実施するのに必要であるとの認識の下に本件実施契約を締結したものである。

ところが、実際には、Z装置は本件発明の技術的範囲に属さず、原告は、本件実施契約を締結してもZ装置と同一の装置を独占的に実施することのできる地位を獲得することができなかったものである。

原告がこのことを知っていれば本件実施契約を締結することはなかったということができるから、原告には本件実施契約の締結につき要素の錯誤があったというべきである。

 

(2)本件実施契約書の6条1項は、「本契約に基づいてなされたあらゆる支払いは、事由の如何に拘わらず乙(判決注・原告)に返還されないものとする。」と規定している。

しかしながら、認定した事実によれば、同条項の定めは、特許無効審判制度が存在することを前提として、本件特許権につき、契約締結後、無効審判が請求され無効審決が確定した場合であっても、本件契約金等の返還をしない趣旨を合意したものであることが認められる。

同条項につき、上記の趣旨を超えて、本件実施契約につき錯誤や詐欺等が存在する場合において、契約の無効や取消しを理由として本件契約金等の返還請求をすることが一切できないとの趣旨まで含むことについての合意があったことをうかがわせる証拠はない。

 

(3)以上によれば、本件実施契約は錯誤により無効であり、被告Yは、原告に対し、不当利得として、本件契約金3000万円の返還義務を負う。

 

6.本件無効審決の確定による本件契約金の返還義務の有無
(1)原告は、本件特許につき本件無効審決が確定し本件特許が遡及的に無効になったから、被告Yは、本件契約金を不当利得として返還する義務がある、と主張する。

しかしながら、本件実施契約書の6条1項は、「本契約に基づいてなされたあらゆる支払いは、事由の如何に拘わらず乙(判決注・原告)に返還されないものとする。」と規定しており、同条項の定めが、特許無効審判制度が存在することを前提として、本件特許権につき、契約締結後、無効審判が請求され無効審決が確定した場合であっても、本件契約金等の返還をしない趣旨を合意したものであることは、前記で説示したとおりである。

同条項によれば、本件特許が本件無効審決により無効となっても、被告Yは、本件実施契約に基づき支払われた本件契約金の返還義務を負わないと解するのが相当である。

 

(2)以上のとおりであるから、原告の被告らに対する、本件無効審決の確定を理由とする不当利得返還請求はいずれも理由がない。

 

7.以上のとおりであるから、原告の被告らに対する請求は、被告ら各自に対し金3000万円及びこれに対する平成18年12月1日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容し、原告の被告らに対するその余の請求はいずれも理由がないから棄却することとし、主文のとおり判決する。
三.私見

判決は、共同不法行為、債務不履行、公序良俗違反、返還義務について認めませんでしたが、錯誤無効を理由に、原告への3000万円の返還を認めました。

特許発明の技術的範囲に属さない装置を、被告らの説明によって技術的範囲に属するものと誤信し、実施権契約を締結したことに要素の錯誤があるとしています。

特許発明の技術的範囲に属するか否かは、請求項の解釈も加わるデリケートな判断が要求されることから、専門家の判断が必要であると考えます。

原告は、その点を怠っており、被告らの説明だけで請求の範囲に属すると判断している点を考慮すれば、原告への契約金3000万円全額の返還を認めるべきであったでしょうか。

特許権者が第三者との間で実施権の設定契約を締結した場合、その契約に係る特許権を維持する義務を負うことはもちろんです(ただし、その義務は、権利を消滅させないように特許料の支払を行う義務や特許権を放棄しない義務)。

しかし、特許権が無効審判により無効になったことを理由に、特許を維持すべき契約上又は信義則上の義務に違反した債務不履行があるとすると、特許権者は安易に実施権を許諾することができなくなり、発明の利用という特許法の目的が達成できなくなります。

無効審決の確定を理由に債務不履行を認めなかったこの判決は妥当なものと思います。

ただし、公知文献の存在を知っており、その公知文献によって特許権が無効になる蓋然性が高いことを認識しつつ(専門家の無効になる蓋然性が高いという鑑定書がある場合も含まれるでしょう)、第三者にその特許権に関して実施契約を締結した場合、故意過失や程度問題はありますが、債務不履行責任が認められることもあるでしょう。

また、本件事案では、専用実施権に対する契約の解除は問題になっていませんが、契約事項について当事者間で問題が生じた場合、一方が契約の解除を通告することが通例であり、契約の解除が裁判上重要な争点になる場合が多いようです。

契約が遡って解除されれば、その契約に拘束されず、その後の賠償責任等を負わなくて済むからです。

この事件において契約書の重要性をあらためて認識しました。